Message

創業者・吉田茂視氏が語るメモリード50年の歩み

01

「買う」時代から、「借りる」時代へ。

創業者・吉田茂氏
(株)長崎冠婚葬祭互助センター[長崎市中町/山本ピル]

(株)長崎冠婚葬祭互助センター[長崎市中町/山本ピル]

 昭和44(1969)年の創業から50年。今想うことは、長崎という街と出合い、さまざまな方に支えられてきたこと。心からの感謝しかありません。

 私は北九州市に生まれ、福岡で育ちました。大学生の頃は何か新しい事業 を起こしたいと野心に溢れていまして、大学の仲間と共同出資で花嫁衣裳のリースを始めました。昭和40年代の日本は高度成長期真っただ中で、生活はまだ貧しい時代。高価な衣裳を自前で準備して、美容師を手配するのは大変なことでした。そこで将来、自分が花嫁衣裳を借りるために、毎月積み立てをする『互助会』という組織を立ち上げ、1年間で会員1万人を獲得しました。まさに【買う時代から借りる時代になる】と確信した瞬間でした。しかし、福岡の仲間と考え方が少しずつズレてきまして……。軌道にのっていたこの事業からきっばり手を引き、新たな場所で再起をかけることにしました。目指したのは長崎。昭和44(1969)年5月に、私は同志6人とともに初めて長崎の地を踏み、7月1日、長崎市中町に「(株)長崎冠婚葬祭互助センター」を立ち上げたのです。

 最初の頃は、互助会というシステムを理解していただくのに必死で、足を棒のようにして家々を訪ねて回りました。互助会事業の運転資金を稼ぐため、恵美須町で本格的なスーパ一マーケットを経営していた時もあります。その甲斐もあって会員募集の活動も充実し、諫早、大村、島原に営業所も開設しました。

 当時、長崎市内での結婚披露宴は主に中華料理店で行われていました。互助会の会員の方も皆さんそうでした。ですから、いっか「自分たちの結婚式場を持つ」ということが一つの大きな目標となり、創業から5年後の昭和49(1974)年、念願の結婚式場「諫早玉姫殿」を建てたのです。これも、社員の皆さんの努力の おかげです。そして、昭和56(1981)年3月には、稲佐 町に本社ビルを建て、“メモリアルをリードする” という想いを込めた「(株)メモリード」へ会社名を改称。夢はさらに大きく飛躍していきます。

02

時代の流れに乗り、

新しい結婚式場が各地に誕生。

長崎新聞文化ホール結婚式場

長崎新聞文化ホール結婚式場

 1980年代は、ブライダル産業の成長期。このブームに乗って、当社も長崎はもちろん、諫早、大村、佐世保、伊万里、佐賀に「玉姫殿」の名称を冠した結婚式場を次々とオープンさせていきました。なかでも思い出深いのが、長崎新聞文化ホール結婚式場の建設です。

 昭和55(1980)年、長崎新聞社の社屋が出島から茂里町に新築移転する際、ホールを建造して結婚式場にするという情報を聞き、ヤクルト創業者であり長崎新聞社の社主(1977〜1988在任)であった松園尚巳氏(故人)に”ぜひ自分に任せて欲しい“と直談判しました。話し合いの末、「建築にかかる10億円を用意できるなら吉田くんに任せるよ 」となったん です。つまり保証金は10億円。すぐに「わかりました」と答え、2つの銀行先 から5億円ずつ融資を受けました。当時、私はまだ35歳。若さゆえの行動では ありましたが、長崎市内に結婚式場を持つという夢をかなえさせていただいたことに感謝しています。

 こうして、メモリードの結婚式場は諌早を手始めに、昭和54(1979)年から昭和62(1987)年の8年間で九州と関東圏合わせて8つを完成させました。昭和60(1985)年に東京に進出したのも、私の中では きな出来事でした。その時は新入社員みんなとともに、1年半ぐらいでム万人を集めることに成功しました。結婚式場は、東京から新幹線が便利であった群馬県に将来をかけ、東京進出から2年目で「玉姫殿」、さらに2年後には「高崎玉姫殿」が完成。合計1200組の婚礼を施行することができたのは大きかったです。まさに、結婚式場の拡大とともに成長していったと言えます。

03

業界の常識を変えた「葬儀革命」

隈研吾氏とのタッグでホテル事業にも。

長崎新聞文化ホール結婚式場

東京都世田谷区にある 旧マツダの「M2ビル」 現在の東京メモリードホール

 メモリードの歩みを支えてきた二本柱は「婚礼事業」と「葬祭事業」です。平成に入ってからは、宮崎県への進出も果たし、平成4(1992)年には群馬県初となる民間葬祭ホールも建て ました。群馬県には それまで公営斎場しかなく、通夜は自宅でするしかありませんでした。ですから、24時間体制の「前橋メモリードホール」の誕生は、建物の大きさもあってか、とにかく大きな話題となりました。

 大切な人を見送る適切な空間もそうですが、女性スタッフを多用することで、きめ細やかなサービスを心がけ、さらに曖昧だった料金を明朗会計にしたことも、多くのお客様に受け人れられる結果となりました。まさに「葬儀革命」です。その後、2000 年に入ってからは少子高齢化が進み、葬儀の在り方にも利便性と質が問われるよう になってきました。そこで私が考えた次の展開、それがホテル事業への参入でした。

 葬儀が終わった後には、必ず法事が必要となります。これまで法事と言えば、自宅かお寺で執り行うのが一般的でした。しかし私はいつか、ホテルで行う時代が来るだろうと考えていました。宿泊できる場所で家族みんなが集まり、結婚式はもちろん、法事もできる場所。ホテルは婚礼 法事の会場にも成り得るという見方から、結婚式場に「ロイヤルチェスター」の名を冠したホテルを平成9(1997)年からスタートさせました。これが、本格的なホテル事業のスタートです。

 そして、創業40周年を迎えた平成21(2009)年7月には、当社の集大成となる「ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート」をオープンさせました。これに関しては、今や日本を代表する建築家となった隈研吾氏との深い縁があったからこそ生まれたと言っても良いでしょう。

 隈氏が最初に設計したビルは、東京都世田谷区にある旧マツダの「M2ビル」。地下を持つこのビルをメモリードが取得し、葬祭場として改装した後、隈氏に見てもらうために案内しました。その時の言葉は、「このビルは斎場になる運命だったんだと思います」と。隈氏がこのビルを建てた時のテーマは「創造と破壊」。ですから、そういう運命だったんだ…‥と笑っておられました。

 隈氏との縁はこの時から始まり、ちょうど対岸にある「長崎県美術館」の設計に携わっておられたこともあって、ガーデン テラスの設計も二つ返事で引き受けていただきました。長崎で確立されたガーデンテラスというホテルブランドはその後、宮崎、佐賀へと続き、来年の夏には福岡にも登場する予定です。これで本格的なホテルは全国で13ヶ所となりますが、今後は20ヶ所を目指していきます。また葬祭場に関しては現在136ヶ所ですが、これも200ヶ所へと拡大していく計画です。

04

オランダに視察へ行き、

「保険事業」の参入を決意。

 さらにもうーつ、今後特に力を入れていきたいのが「保険事業」です。私は以前、世界的な葬儀 保険会社があるオランダヘ視察に行ったことがあるのですが、現地で説明を聞き、『これは日本でもできるな』と実感しました。日本では平成18(2006)年に保険業法が改正され少額短期保険業が新規の保険事業 として認められたことを契機に当社も少額短期保険 業に参入し、平成20(2008)年に新会社「株式会社メモリード・ライフ」を設立しました。

 現在、互助会事業者で葬儀保険分野で成功しているのは数社あり、当社はその中で最大の葬儀保険 事業会社として走り続けています。

 この葬儀保険は一般の保険会社と異なり、保険金額が少額で、月々の保険料が安いことが最大の特徴。少子高齢化の影響もあり、お香典の集まりが減少している今日においては、その分を保険でカバーできたり、料理代やお寺の施設など葬儀に関わる費用全般を保険でまかなえるのは、お客様にとっても大きなメリッ卜と言えるでしょう。

 おかげさまで加人の保有件数は今年度で8万件になりました。これを10万件までのばし、年間保 険料収入を30億円へ。さらに将来的には20万件まで増やし、年間60億円まで成長させていきたいと考えています。

05

「観光事業」にも参入、

長崎の交流人口を増やす。

チョコレートハウス商品の一例1
チョコレートハウス商品の一例2
チョコレートハウス商品の一例3

チョコレートハウス商品の一例

 長崎に根を下ろして50年。私たちを温かく迎えてくださる長崎の方々は、どこまでも優しく、そして柔軟さを持ち合わせているように感じています。また、西洋から伝わった歴史と文化が今も残る長崎の街並みは、観光県としての風格を漂わせています。この財産をこれからも大切に守り継ぎ、もっと活気ある長崎にしていくこと。これからメモリードが着目していくのは「観光事業」です。

 しかしながら、昨今の人口減少のニュースを耳にし、長崎の弱点を改めて知ることになりました。もっと交流人口を増やすこと。もっと確かな観光事業を増やすこと。この目的を達成するため、当社では、3年前から日本最古の石橋「眼鏡橋」を中心とする中島川周辺に、新しいお土産店を6店舗展開しています。出島からもたらされたチョコレートをヒントにした商品はお客様に好評です。また、グラバー園の指定管理者にもなり、居留地時代の歴史を守り、 伝えていく事業にも参画しています。さらに温泉地として名高い雲仙温泉では、老舗旅館「雲仙湯元ホテル」の経営にも携わる機会をいただきました。雲仙は、国立公園に指定された最初の場所であり、熊本県と繋がる交流地点です。ここを元気にしていかないと、長崎県全体が元気にならないと強く感じています。

 数年後に見えてきた長崎新幹線の開通は、―つの大きな転換期となるでしょう。経済ふ観光も、人の流れも、スピー ド感ある変革が訪れるはずです。それをうまく利用し、長崎の企業が県外に進出すること。そして、もっと外から長崎に多くのモ人コトを流通させること。これらが、未来の長崎の発展に必要不可欠だと強く感じています。

 躍進を続けた「平成」が終わり、新しい「令和」の時代が始まりました。ここまで企業を成長させることができたのも、社員をはじめ、取引先の皆様のおかげです。経営者は、社員とその家族のために頑張るのが当たり前。支えてくれる人々との出会いなくして、今日のメモリードはないと言っても過言ではありません。まずは、創業の原点を忘れないこと。そしてこれからは、もっと地域のためになることを今まで以上に考え、実践していくことが当社の大きな使命であると思っています。これまでも、これからも、真心を込めて「ありがとう」の言葉を伝えながら、新しい50年、 100年先を目指していきます。

戻る

PAGE TOP